「講釈の誤り」とは?
「講釈の誤り」とは、
過去に起こった出来事について、原因と結果に都合が良く、納得がいく理由づけをすることにより、頭の中で作り上げた誤ったストーリーが、私たちに、誤った世界観や、誤った将来予測を形成させること
をいいます。
人は、原因追求思考が大好きな生き物なので、起こった出来事に対して、因果関係づけをして、頭の中でストーリーを作り上げます。
作り上げるストーリーは以下のような特徴があります。
- ストーリーは、後付けで作る
- ストーリーは、因果関係に一貫性があり、気持ち良さを感じるものを作る
- ストーリーは、単純であり、納得できるものを作る
- ストーリーは、起こらなかった無数の事情は無視して作る
人は、自分の周りで起こる様々な出来事に対し、因果関係づけをし、理由を見出すことで、納得し、気持ち良くなり、安心したいと欲するため、ストーリーを作り上げようとします。
ストーリーを作るのに、誤っていないか?正確性はどうか?という観点は用いません。
納得できて、気持ちが良いかどうか という観点からストーリーを作ります。
納得できて、気持ちが良いというのは、‶ 正しい ″ という認知につながるからです。
以上のことから、作り上げられるストーリーからは、必然的に「講釈の誤り」(誤った世界観や、誤った将来予測の形成)が生まれます。
人は「誤った世界観」で生きている可能性がある
人は、往々にして、過去の出来事について、根拠の薄い説明をつけ、それを真実だと信じることで、自分を納得させて生きています。
過去の出来事に対して作り上げるストーリーは、因果関係づけがシンプルです。
肩書や才能、無知や無能といった、根拠が薄く、分かりやすい要素をストーリーの作成素材とし、結果論と結びつけることで、一貫性があって、気持ちが良いストーリーが作りやすくなります。
複雑さゆえに、考え出すと気分が悪くなる事情 — たとえば、
- 偶然により一定確率で起こるランダムな事情
- 起こらなかった無数の事情
といったものは、一貫性があって、気持ちの良いストーリーを作るのに邪魔になるので、ストーリーの作成材料から排除されます。
このように、人は、過去の出来事について、根拠の薄い説明をつけ、根拠が薄く分かりやすい説明だからこそ納得し、それを真実だと信じることで、納得感をもって生きることができるのです。
その納得感は、自分が作り上げた幻想である可能性があります。
それゆえに、人は、「誤った世界観」で生きている可能性があります。
常に「誤った世界観」で生きていないかを自問自答し、世界の見方の認知を修正できることが理想です。
人は、自分の世界観に不一致が起こると、落ち着かなくなり、自信が持てなくなる
人は、起こった出来事に対して、「なぜそのようなことが起こったのか」という原因を求めます。
そのため、先ほど説明したように、一貫性があり、気持ちが良い因果関係となるストーリーを描くのです。
ここで、もし、複雑で、一貫性がなく、自分の描いたストーリーとは異なるストーリーが登場しようものなら、自分の世界観に不一致が起きるので、そのストーリーを拒絶します。
人は、自分の世界観に不一致が起きると、落ち着きがなくなり、自信がもてなくなり、不快な心境に陥るからです。
したがって、人は、精神の安定のためにも、一貫性があり、気持ちが良い因果関係となるストーリーを描くのをやめられないのです。
しかも、そのためなら、ストーリーは、現実を無視した幻想でも構わないのです。
自分の無知や、思考停止なんてものは、簡単に棚上げしてしまいます。
人は、過去を理解し、未来も知り得ると思い込んでしまう
人は、過去に起こった出来事に対し、一貫性があり、気持ちが良い因果関係となるストーリーを作ることをサボりません。
そのため、自分は過去を理解できているという印象をもち、世界を実際以上に理解していると思い込みます。
過去を理解できているから、未来も知り得るとも思ってしまいます。
後知恵で作ったストーリーで過去を説明することができたという感覚が、私は起こったことを予測できていたという錯覚となり、その錯覚が、さらに、私なら未来も予測できるという錯覚を引き起こします。
しかし、実際には、自分が思うほど、過去も未来も理解していません。
なぜなら、過去も未来も理解していると思える土台にあるのが、ランダム性や起こらなかった無数の事情を無視した、一貫性があり、気持ちが良い因果関係となるように作られたストーリーだからです。