刑法論文(4)~平成30年司法試験の刑法論文問題から学ぶ~
平成30年司法試験の刑法論文問題から学ぶ
平成30年司法試験の刑法論文問題の答案を作成してみました。
この論文からは以下のテーマが学べます。
2⃣ 不作為による殺人未遂罪(刑法199条、203条)、不作為による殺人の実行の着手時期、殺人未遂罪と保護責任者遺棄等罪の区別、殺人罪における未遂犯と不能犯の区別
3⃣ 刑法総論
問題
次の【事例】を読んで、後記の〔設問1〕から〔設問3〕までについて、具体的な事実を指摘しつつ答えなさい。
【事例1】
1 甲(男性、17歳)は、私立A高校(以下「A高校」という。)に通う高校2年生であり、A高校のPTA会長を務める父乙(40歳)と二人で暮らしていた。
2 7月某日、甲は、他校の生徒と殴り合いのけんかをして帰宅した際、乙から、顔が腫れている理由を尋ねられ、他校の生徒とけんかをしたことを隠そうと思い、とっさに乙に対し、「数学の丙先生から、試験のときにカンニングを疑われた。カンニングなんかしていないと説明したのに、丙先生から顔を殴られた。」とうその話をしたところ、乙は、その話を信じた。
乙は、かねてから丙に対する個人的な恨みを抱いていたことから、この機会に恨みを晴らそうと思い、丙が甲に暴力を振るったことをA高校のPTA役員会で問題にし、そのことを多くの人に広めようと考えた。そこで、乙は、PTA役員会を招集した上、同役員会において、「2年生の数学を担当する教員がうちの子の顔を殴った。徹底的に調査すべきである。」と発言した。なお、同役員会の出席者は、乙を含む保護者4名とA高校の校長であり、また、A高校2年生の数学を担当する教員は、丙だけであった。
3 前記PTA役員会での乙の発言を受けて、A高校の校長が丙やその他の教員に対する聞き取り調査を行った結果、A高校の教員25名全員に丙が甲に暴力を振るったとの話が広まった。丙は、同校長に対し、甲に暴力を振るったことを否定したが、当分の間、授業を行うことや甲及び乙と接触することを禁止された。
〔設問1〕
【事例1】における乙の罪責について、論じなさい(業務妨害罪及び特別法違反の点は除く。)。
なお、乙には、公益を図る目的はなかったものとする。
【事例2】
4 丙は、甲及び乙との接触を禁止されていたが、乙に対し、前記PTA役員会での乙の発言の理由を直接尋ねたいと考え、8月某日午後10時に乙を町外れの山道脇の駐車場に呼び出した。
乙は、丙と直接話をするに当たり、甲が丙から顔を殴られたことについて、甲に改めて確認しておこうと思い、甲に対し、「今日の午後10時に山道脇の駐車場で丙と会うことになった。あの話は本当だよな。」と尋ねた。甲は、乙と丙が直接話合いをすることを知り、このままうそをつき通すことはできないと思い、乙に対し、うそであることを認めて謝った。乙は、甲がうそをついていたことに怒り、「なぜ、うそをついたんだ。」と怒鳴りながら、甲の顔を複数回殴って叱責した。
5 同日午後10時頃、乙は、自動車を運転して、前記駐車場まで行き、同駐車場に自動車を駐車して自動車から降りると、同駐車場において、既に到着していた丙と向かい合って、話を始めた。
そして、丙が乙に前記PTA役員会での乙の発言の理由を尋ねたところ、乙は、「息子もうそだと認めたので、この話は、これで終わりだ。」と言い、一方的に話を終わらせ、自己の自動車の方に向かって歩き出した。丙は、乙の態度に納得できずに「まだ話は終わっていない。」と言って乙を追い掛けたところ、乙は、急いで自動車に乗り込もうとした際、石につまずいて転倒し、額をコンクリートブロックに強く打ち付け、額から血を流して意識を失った。丙は、乙が額から血を流して意識を失ったことに驚き、その場から立ち去った。
6 甲は、乙と丙の話合いがどうなったかが気になり、同日午後10時30分頃、バイクを運転して前記駐車場に向かい、同駐車場で倒れている乙を発見した。甲は、同駐車場に止めたバイクにまたがったまま、乙に「親父。大丈夫か。」と声を掛けたところ、これにより乙が意識を取り戻して立ち上がった。乙は、甲が同駐車場にいることには気付かず、自己の自動車を駐車した場所に向かおうとしたが、意識がはっきりとしていなかったため、その場所とは反対方向の崖に向かって歩き出し、約10メートル歩いた崖近くで転倒して意識を失った。
山道脇の駐車場には、街灯がなく、夜になると車や人の出入りがほとんどなかった。さらに、乙が転倒した場所は、草木に覆われており、山道及び同駐車場からは倒れている乙が見えなかった。もっとも、乙が崖近くで転倒した時点では、乙の怪我の程度は軽傷であり、その怪我により乙が死亡する危険はなかった。しかし、乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており、崖から約5メートル下の岩場に乙が転落する危険があった。
7 甲は、バイクから降りて、乙に近づいて乙の様子を見ており、乙の怪我が軽傷であること、乙が転倒した場所のすぐそばが崖となっており、崖下の岩場に乙が転落する危険があることを認識していた。また、乙が崖近くで転倒した時点で、同駐車場に駐車中の乙の自動車の中に乙を連れて行くなどすれば、乙が崖下に転落することを確実に防止することができたし、甲は、それを容易に行うことができた。
しかし、甲は、丙から顔を殴られたという話がうそであることを認めて謝ったのに、乙から顔を複数回殴られ叱責されたことを思い出し、乙を助けるのをやめようと考え、乙の救助を一切行うことなく、その場からバイクで走り去った。
8 その後、甲が自宅に到着した頃、乙は、意識を取り戻して起き上がろうとしたが、崖に向かって体を動かしたため、崖下に転がり落ち、後頭部を岩に強く打ち付け、後頭部から出血して意識を失った。この時点で、乙の怪我の程度は重傷であり、乙が意識を失ったまま崖下に放置されれば、その怪我により乙が死亡する危険があった。
9 同日午後11時30分頃、乙は、意識を取り戻し、自己の携帯電話機で119番通報を行い、臨場した救急隊員により救助され、搬送先の病院で緊急手術を受けて一命を取り留めた。
〔設問2〕
【事例2】における甲の罪責について、以下の⑴及び⑵に言及しつつ、論じなさい(特別法違反の点は除く。)。
⑴ 不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場からは、どのような説明が考えられるか。
⑵ 保護責任者遺棄等罪(同致傷罪を含む。)にとどまるとの立場からは、不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場に対し、どのような反論が考えられるか。
〔設問3〕
【事例2】の6から9までの事実が以下の10及び11の事実であったとする。
10 甲は、乙と丙の話合いがどうなったかが気になり、同日午後10時30分頃、バイクを運転して山道脇の駐車場に向かい、同駐車場で意識を失って倒れている丁を発見した。丁は、甲とは無関係な者であるが、その怪我の程度は重傷であり、そのまま放置されれば、その怪我により死亡する危険があった。
甲は、丁の体格や着衣が乙に似ていたこと、同駐車場に乙の自動車が駐車されていたこと、夜間で同駐車場には街灯がなく暗かったことから、丁を乙と誤認した。
11 甲は、重傷を負った乙が死んでも構わないと思いつつ、乙と誤認した丁の救助を一切行うことなく、その場からバイクで走り去った。その後、丁は、意識を取り戻し、自己の携帯電話機で119番通報を行い、臨場した救急隊員により救助され、搬送先の病院で緊急手術を受けて一命を取り留めた。
なお、甲と同じ立場にいる一般人でも、丁を乙と誤認する可能性が十分に存在した。また、同駐車場には、丁以外にも負傷した乙が倒れており、甲は、乙の存在に気付いていなかったが、丁を救助するために丁に近づけば、容易に乙を発見することができた。
この場合、甲には無関係の丁を救助する義務は認められないので殺人未遂罪は成立しないとの主張に対し、親に生じた危難について子は親を救助する義務を負うとの立場を前提に、甲に同罪が成立すると反論するには、どのような構成が考えられるかについて、論じなさい。
答案
設問1
1 乙が、PTA役員会において「2年生の数学を担当する教員がうちの子の顔を殴った」などと発言(以下、「本件発言」という。)した行為につき、名誉毀損罪(刑法230条1項)が成立しないか。
⑴ 本条の「公然と」とは、不特定又は多数人が認識できる状態をいう。
「不特定又は多数人が認識できる状態」は、事実摘示の直接の相手方は特定少数人であっても、伝播して間接に不特定多数人が認識できるようになる場合を含むと解する。
これは、事実摘示の直接の相手方は特定少数人であっても、その結果、情報がうわさなどで不定多数又は他人数に広まれば、名誉が毀損されるためである。
ただし、このように解する場合は、法の趣旨に従い、発言や文書の性質、内容、相手方との関連、その他具体的諸事情を総合して、社会通念により、その記載内容が不特定又は多数人に伝播するおそれがあるか否かを検討し、これが認められる場合において公然性が肯定されるべきである。
乙の本件発言は、A高校のPTA役員会という密室で行われており、そこには乙以外の保護者3名とA高校の校長しかいなかったため、特定の者に対してのみなされている。
そうすると「公然と」とはいえないとも思える。
しかし、乙は「徹底的に調査すべきである。」と発言しており、このような発言があれば、校長やPTA役員は、その事実関係や背景問題等を調査するために、多くの教員・生徒・保護者に対して聞き取り調査が行われ、その過程で乙の摘示した事実が不特定又は多数人に伝播する蓋然性があったといえる。
現に、PTA役員会での本件発言を受けて、A高校の校長が丙やその他の教員に対する聞き取りを行った結果、A高校の教員25名全員に丙が甲に暴力をふるったとの話が広まっている。
よって、「公然と」にあたる。
⑵ 本条の「事実を摘示し」について、名誉毀損罪の保護法益が「人の社会的名誉」であることに鑑み、摘示される事実は、名誉を害するに足りるものである必要がある。
具体的には、「個人に対する社会的評価を低下させるもの」あるいは、「社会の一員としての最低限の評価を害するもの」であることを要する。
ここにいう「事実」は、真実のものだけでなく、虚偽、無根、伝聞のものも含まれる。
乙は「2年生の数学を担当する教員がうちの子を殴った。徹底的に調査すべきである。」と発言している。
乙の発言内容は、教員が生徒に暴力を振るったというものであるから、教員としての社会的評価を低下させ、A高校の一員としての評価を害するものであるといえる。
そして、これは甲がうそをついたことによる虚偽のものであるが、本罪の「事実」に当たる。
よって、乙の発言は「事実を摘示」したといえる。
⑶ 本条の「人の名誉を毀損した」とは、名誉毀損罪が抽象的危険犯であることから、個人の社会的名誉が低下する危険が生じたことをいう。
社会的名誉が現実に侵害されたことは必要ではない。
また、名誉を毀損する事実が、だれに対するものなのかを特定し得ることが必要である。
これについては、相手方の人名が示されている必要はなく、表現の全体あるいは行為当時の状況から、誰を指すか明らかになればよい。
本件における乙の発言内容は「2年生の数学を担当する教員がうちの子を殴った」というものであるが、ここでは個人名は挙げられておらず「2年生の数学を担当する教員」とされていることからすれば、不特定又は多数人にとって丙と特定できないように思われる。
しかし、A高校の2年生の数学の担当教員は丙だけであったことから、乙の上記発言により不特定又は多数人も丙のことをであると特定できるといえる。
そして、乙の子を殴ったという事実の摘示により、丙の教員としての社会的評価は低下する危険が生じたといえる。
現に、乙は、本件発言により、A高校の教員25名全員に丙が甲に暴力をふるったとの話が広まり、丙は当分の間授業を行うことや甲乙との接触の禁止を受けている。
よって、「人の名誉を害した」といえる。
⑷ 名誉棄損罪の故意が認められるか。
故意が認められるためには、他人の社会的評価を害し得る事実を不特定又は多数人が認識し得る形で摘示していることについて、少なくとも未必の故意が必要となる。
故意があれば、それ以上に名誉毀損の意図や目的をもっていたことは必要ではない。
なお、名誉毀損罪は、摘示事実が真実であったかどうかを問わず成立するため、摘示事実の真実性あるいは虚偽性の認識は、故意とは無関係である。
ただし、摘示した事実を真実だと誤信した場合、その誤信に相当の理由があれば故意が阻却されると解する。
反対に言うと、ある事実を公表した者が、その事実を真実であると信じ、かつ信じるにつき過失があると認められる場合は、故意責任は阻却されず、故意が認められると解する。
乙は、甲から「丙先生から顔を殴られた。」との話を受けた時に、甲に具体的な経緯や内容を追及したり、丙に事実確認をするなど真偽を確かめることを何ら行っていない。
よって、乙には、甲の話を真実であると信じたことに過失が認められるので、故意責任は阻却されない。
また、本件発言は、上述のとおり、伝播する蓋然性があったのであるから、乙に丙の社会的評価を低下させるおそれがあることの認識・容認が認められる。
よって、名誉毀損罪の故意が認められる。
⑸ 公共の利害に関する場合の特例(刑法230条の2)により違法性が阻却されないか。
刑法230条1項の「その事実の有無にかかわらず」とは、摘示した事実が真実であっても名誉毀損罪が成立することを意味する。
真実を述べることも全て処罰されるとすれば、正当な批判も許されないことになり、社会の健全な発展は阻害され、言論・表現の自由の保障は、その意義を大きく制限されることになる。
そこで、刑法230条の2により、摘示された名誉を毀損する事実が、①公共の利害に関すること(事実の公共性)、②行為の目的が専ら公益を図るためであったこと(目的の公益性)であった場合は、事実を述べることによって他人の名誉を毀損しても違法性が阻却される規定が置かれている。
「公共の利害に関すること」とは、一般多数人の利害に関することを意味する。
「行為の目的が専ら公益を図るためであったこと」の「公益」とは、公共の利益をいう。
乙の本件発言の目的は、乙の丙に対する個人的な恨み晴らすというものであり、上記①②のいずれにも該当しない。
よって、刑法230条の2により違法性は阻却されない。
2 以上より、乙に丙に対する名誉毀損罪が成立する。
設問2⑴
1 甲が乙の救助を一切行うことなく、その場からバイクで走り去った行為につき、不作為による殺人未遂罪が成立しないか(刑法199条、203条)。
⑴ 作為(行動すること)によって行われる犯罪を作為犯といい、不作為(行動しないこと)によって行われる犯罪を不作為犯という。
さらに、不作為犯は、法律の条文が不作為(~しなかった)の形式で書かれている真正不作為犯と、法律の条文が不作為の形式で書かれていない不真正不作為犯とに分けられる。
殺人罪は不作為によっても成立する、不真正不作為犯である。
不真正不作為犯が成立するには、①法的作為義務の存在、②作為の可能性、③故意の実行行為としての不作為、④不作為と結果の因果関係の4つの要件が必要となる。
①「法的作為義務の存在」とは、行為者に結果の発生を防止すべき行動をする法律上の義務があることをいう。
②「作為の可能性」とは、行為者において作為義務を行うことで、結果の発生を防止できる可能性があったことをいう。
③「故意の実行行為としての不作為」とは、行為者が故意に作為義務を行わなかったことをいう。
④「不作為と結果の因果関係」とは、不作為者が期待された必要な行為をしたならば、結果が発生しなかったと認められる関係があることをいう。
ア 甲は、乙の子であり、子は親を監護する義務を負うわけではない(民法820条)。
しかし、慣習又は条理上、子は負傷した親を救助する責務を負うべきである。
乙の倒れた場所は、草木に覆われ、周囲は街灯や車・人の出入りがほとんどなく、助けが期待できない場所であったのであるから、乙の生命の存続は、排他的に甲に依存しており、甲はこれを支配していたといえる。
よって、甲は乙を自動車内に連れていくなどし、乙の生命を救護する措置をとるべき法律上の義務があったと認められる(①「法的作為義務の存在」充足)。
イ 甲は、乙が崖近くで転倒した時点で、乙の自動車内に乙を連れて行くなどすれば、乙が崖下に転落して重傷を負う結果の発生を防止することが容易にできた(②「作為の可能性」充足)。
ウ 甲は、乙から殴られるなどしたことを思い出し、乙を助けるのをやめようと考え、その場から立ち去っており、甲を救助することができたにもかかわらず、故意に行わなかった(③「故意の実行行為としての不作為」充足)。
エ 甲が乙を救助していれば、乙は崖から転がり落ちて重傷を負い、死の危険にさらされることはなかったのだから、甲が期待された救助行為をしていれば、結果が発生しなかったと認められる(④「不作為と結果の因果関係」充足)。
よって、甲の行為は不真正不作為犯の成立要件を満たし、不作為の殺人罪の実行行為が認められる。
⑵ 実行の着手時期はいつか。
犯罪の実行の着手は、法益侵害(構成要件的結果)の現実的危険が発生した時点で認められる。
これは、法益侵害の現実的危険が発生すれば、犯罪の結果が発生していなくても、当該行為を未遂罪として処罰する価値が生まれるためである。
不作為による殺人の実行の着手時期は、死の結果発生の具体的危険性と結果防止の可能性(作為可能性)が存在し、作為義務者がそのことを認識しながら、結果防止のための作為をなすに必要な時間を不作為のまま経過した時と解する。
具体的には、被害者を放置する犯行態様の殺人では、被害者を放置した時点で実行の着手が認められると解する。
乙が転倒した場所は、草木に覆われていて倒れている乙が見えない場所であり、その付近には街灯がなく、夜になると車や人の出入りがほどんどない状況であった。
このような状況下で、乙を救助する者が現れることは期待できず、乙が転倒した場所のすぐそばは崖であり、乙が崖下の岩場に転落して死亡する蓋然性があった。
よって、甲が、上記のような場所に乙を放置して立ち去った時点で、乙の生命に対する法益侵害の現実的危険が発生したといえ、殺人の実行の着手が認められる。
そして、乙に死亡の結果が発生していないので、殺人は未遂犯となる。
⑶ 殺人の故意が認めらえるか。
「故意」とは、犯罪事実の認識・容認をいう。
甲は、乙が転倒した場所が上記のようなすぐそばが崖になっており、助けが来ることも期待できない場所であり、崖下の岩場に乙が転落する危険があったことを認識していたが、あえて乙を放置して立ち去っている。
甲は乙が死亡する蓋然性を認識していたと認められ、甲に殺人の故意が認められる。
⑷ 以上より、甲に不作為による殺人未遂罪が成立する。
設問2⑵
1 不作為による殺人未遂罪が成立するとの立場に対し、①甲には殺人の故意がないこと、②甲の不保護は殺人罪の実行行為とはいえないことを理由に保護責任者遺棄等罪(刑法218条、219条)が成立するにとどまるという反論が考えられる。
⑴ まず前提として、遺棄行為と要扶助者の死亡結果との間に因果関係があり、かつ行為者に殺意があるときは、殺人罪のみが成立し、吸収関係により保護責任者遺棄致死罪は成立しない。
ただし、この場合、遺棄または生存に必要な保護をしない行為が、殺人罪の実行行為にあたるものでなければならないことから、殺意はあるが殺人罪の実行行為とはいえない場合は、殺人罪ではなく、保護責任者遺棄致死罪が成立するにとどまると解する。
⑵ ①の反論は、殺人未遂罪と保護責任者遺棄等罪の区別は殺意の有無によることを前提とし、甲には乙の死亡についての認識・容認がなかったことから殺人未遂罪は成立しないと主張するものである。
確かに、乙は軽傷であり、甲は乙から顔を殴られ叱責されたことを思い出し、乙を助けるのをやめようとしたことからすれば、積極的に甲の死亡を容認していたとはいい難い。
しかし、甲は、乙が崖下に転落する危険があることを認識しており、崖下の岩場に転落することが通常死亡する高度の危険が生じていること、及び甲がその高度の危険を除去できる排他的地位にいることを認識しつつ、あえて救助しないものとしているのであるから、乙の死亡について認識・容認があったといえる。
よって、①の反論は認められず、乙に殺人の故意が認められる。
⑶ ②の反論は、殺意があっても、甲の不保護は殺人罪の実行行為とはいえないとして、殺人未遂罪は成立しないと主張するものである。
保護責任者遺棄致死傷罪の行為は、遺棄・不保護であるところ、不保護とは、要扶助者を危険な状態に置いたままで立ち去ること、すなわち「置き去り」である。
「置き去り」が殺人の実行行為といえるためには、要扶助者の生命の存続を脅かす現実的危険が発生したことを要する。
逆にいえば、「置き去り」が要扶助者の生命を脅かす現実的危険を発生させていないのであれば、殺人の実行行為はなく、保護責任者遺棄致死傷の実行行為があったにとどまる。
甲は、助けが来ることも期待できず、すぐそばが崖になっており、崖下に転落する蓋然性がある場所に乙を置き去りにしている。
よって、乙の「置き去り」行為は、乙の生命を脅かす現実的危険を発生させる行為であることから、保護責任者遺棄致死傷の実行行為にどどまらず、殺人の実行行為が認められる。
したがって、②の反論は認められず、乙に殺人の実行行為が認められる。
2 以上より、乙の死亡という結果は発生していないので、甲に不作為による殺人未遂罪が成立する。
設問3
1 甲には無関係の丁を救助する義務は認められないので殺人未遂罪は成立しないとの主張に対し、以下のように殺人未遂罪が成立すると反論する。
⑴ 甲に無関係の丁を救助する法的作為義務が認められないか。
不真正不作為犯の成立要件である法的作為義務は、行為者に結果の発生を防止すべき行動をする法律上の義務があることをいう。
丁は甲とは無関係の者であり、甲が、そのような丁を救助する法律上の義務はないとも思える。
しかし、丁と乙の位置関係は、丁に近付けば容易に乙を発見できる位置関係であったことからすれば、丁が倒れていた場所は、乙が倒れていた場所と同様、草木に覆われていて倒れている丁が見えない場所であり、その付近には街頭がなく、夜になると車や人の出入りがほどんどない場所である上、すぐそばは崖であり、丁が崖下の岩場に転落して死亡する蓋然性がある場所であったと認められる。
そして、その場所において丁を救助できたのは、甲のみあったと認められる。
そうすると、甲以外の者が丁を助けることは期待できず、甲は丁の生命に対する排他的支配を及ぼしていたといえる。
さらに、丁の救助は、乙の自動車内に運んだり、119番通報するなどの容易なものであった。
このことから、甲は、丁とは親族関係はなく無関係ではあるが、その場において丁の生命を容易に救うことができる唯一の者であったのだから、丁を救助する法的作為義務が認められると解する。
⑵ 甲が丁を放置して立ち去った行為につき、殺人罪の実行行為性が認められないか。
丁は、甲が立ち去った後、意識を取り戻し、自己の携帯電話機で119番通報するなどして救助され、一命を取り留めている。
かかる状況が、丁死亡の結果を発生させる実質的危険性がないとされる場合は、殺人罪の不能犯となり、殺人未遂罪は成立しない。
これは、殺人罪における未遂犯と不能犯の区別の問題である。
未遂犯と不能犯を区別する観点から不能犯を定義すると、実行の着手に当たるような行為が行われても、その行為に結果を発生させる実質的危険性がないため、未遂犯として処罰できない場合を不能犯と解する。
甲が重傷を負った丁を放置して立ち去った行為に、丁の死亡という結果を発生させる現実的危険性があったか。
上記のとおり、丁が倒れていた場所は、乙が倒れていた場所と同様、草木に覆われていて倒れている丁が見えない場所であり、その付近には街頭がなく、夜になると車や人の出入りがほどんどない場所である上、すぐそばは崖であり、丁が崖下の岩場に転落して死亡する蓋然性がある場所であったと認められる。
よって、このような場所において丁を放置すれば、丁死亡という結果を発生させる現実的危険性があったと認められる。
したがって、殺人罪の未遂犯として処罰できる以上、殺人罪の不能犯は成立しない。
客観面として殺人未遂罪が成立することから、殺人罪の実行行為性が認められる。
⑶ 丁を乙だと誤認した甲に殺人罪の故意が認められないか。
「事実の錯誤」とは、犯罪の行為者が認識・容認していた犯罪事実と、実際に発生した犯罪事実とが食い違うことをいう。
「客体の錯誤」とは、事実の錯誤のうち、犯罪行為の客体に錯誤があった場合の錯誤をいう。
事実の錯誤が起こった場合、犯罪の故意の存在を認め、犯罪の成立が認められるかどうかが問題となる。
故意責任の本質は、規範に直面し、犯行を思いとどまるという反対動機を形成できる状況にありながら、あえて犯罪行為に及んだことに対する道義的非難にあるところ、事実の錯誤により違法性を基礎付ける事実に錯誤がある場合、規範に直面し得ないため、犯罪の故意が阻却され、犯罪の成立が否定されるとも思える。
しかし、事実の錯誤を起こしても、犯罪の故意は認められ、犯罪は成立すると解する。
例えば、Aを殺すつもりが、人違いをしてBを殺してしまった場合(事実の錯誤における客体の錯誤)という殺人罪の例で考えてみると、殺人罪の構成要件である「人を殺した」という点においては、行為者の認識と現実に発生した事実は一致している。
この場合、殺した相手が誰であるかは重要ではなく、人を殺したこと自体が重要であるので、人を殺してはいけないという規範に直面しながら、あえて殺人行為に及んでいるので、故意責任を問うことが可能である。
よって、事実の錯誤を起こしても、必ずしも犯罪の故意は阻却されず、犯罪の成立が認められる場合があると解する。
甲は丁を乙と誤認した上で、乙のけがの程度が重傷であり、そのまま放置すれば、そのけがにより乙は死亡する蓋然性があるとの認識で、乙が死んでも構わないと容認している。
ここで、甲は、丁を乙と誤認する事実の錯誤(客体の錯誤)を起こしているが、重傷者を放置すれば死亡するかもしれないという規範に直面しながら、あえてその者を放置し、殺人行為に及んでいることから、故意責任を問うことが可能である。
よって、甲に対し、丁に対する殺人の故意が認められる。
2 以上より、甲に丁に対する不作為による殺人未遂罪が成立する。