「軽微な傷害」と「暴行」を区別する境界
「軽微な傷害」と「暴行」を区別する境界については、
日常生活上看過されるものかどうか
を基準とする判例が下級審判例に多くあります。
これを明言し、事実認定上の基準を示した判例として、以下のものがあります。
この判例で、裁判官は、
- 刑法にいわゆる傷害とは、他人の身体に対する暴行により、その生理機能に障害を与えることと解されているのであるが、これは、あくまでも法的概念であるから、医学上の創傷の概念と必ずしも合致するものではない
- ことに他人の身体に暴行を加えた場合には、厳密に言えば、常に何らかの生理的機能障害を惹起しているはずであって、この意味で傷害と未だそれに至らない暴行との区別は、それによって生じた生理的機能障害の程度の差異に過ぎないと言える
- 両者の境界線をどこに引くかは、抽象的には困難な問題であるが、⑴日常生活に支障を来さないこと、⑵傷害として意識されないか、日常生活上看過される程度であること、⑶医療行為を特別に必要としないこと等を一応の標準として、生理的機能障害が、この程度に軽微なものが刑法上の傷害ではなくて暴行であると考えることができよう
と判示し、上記⑴~⑶の3要件に合致する擦過創・打撲につき、傷害と認めず、強盗致傷罪の成立を否定しました。
この判例により、傷害罪と暴行罪の境界は、
- 日常生活に支障を来さないこと
- 傷害として意識されないか、日常生活上看過される程度であること
- 医療行為を特別に必要としないこと
の3つの基準を基に考えることができるとされました。
軽微な傷害として傷害罪の成立を否定した判例
上記の3つの基準によって傷害罪を否定した判例(下級審判例)として、以下のものがあります。
福岡地裁判決(昭和47年1月31日)
被害者が特に痛みを訴えず、治療を行なわなかった全治3日間を要する左耳部挫傷につき、日常生活に支障を来さず、日常生活上看過される程度のものであって医療行為を必要としないことを理由に傷害罪の成立を否定し、暴行罪が成立するにとどまるとしました。
大阪地裁判決(昭和36年11月25日)
3、4日で自然治癒した鼻部腫脹の傷害について、本人が傷害として意識せず、別段の治療を施さず、短時間に快癒する程度のもので、その間、日常生活に支障を来さないような軽微なものであることを理由に、傷害罪の成立を否定し、暴行罪が成立するにとどまるとしました。
東京地裁判決(昭和40年8月10日)
軽微なキスマーク(吸引性皮下出血)について、裁判官は、
と判示し、傷害罪の成立を否定しました。
この判例で、裁判官は、
- 社会通念に照して、吾人の日常生活において一般に看過されるような極めて軽微な身体の損傷、例えば本人が自覚しない程度の発赤とか表皮はく離、あるいは腫脹、何らの治療手段を施さなくてもごく短時間に自然に快癒する疼痛のごときは、医学上はこれを創傷ないし病変と称し得ても、刑法上にいわゆる傷害にはあたらないと解するのが相当である
と判示しました。
仙台高裁秋田支部判決(昭和36年2月22日)
この判例で、裁判官は、
- 極めて軽微な表皮の剥脱、出血、腫脹等通常人の日常生活において、ほとんど意に介しない程度の創傷は、刑法上の傷害というべきではない
と判示しました。
大阪地裁判決(昭和41年1月31日)
治療約2日間を要する掻傷を負った被害者において医師に全然痛みを訴えず、医師も何らの手当もしなかった事案について、傷害罪は成立しないとしました。
大阪地裁判決(昭和42年12月16日)
この判例で、裁判官は、
- 本件の(外陰部)裂創は、被害を受けた本人も気づかず、格別の治療も受けないで4、5日のうちに自然に治癒したもので、一般日常生活において看過される程度のきわめて軽微な損傷であって、傷害の構成要件が予定している程度の被害者の生理機能に障害を生ぜしめたとも健康状態を不良に変更したともいえない
として、傷害罪の成立を否定しました。
宮崎地裁都城支部判決(昭和42年6月22日)
この判例は、被害者に自覚がなく、消毒すら必要ない全治3日の大腿内部擦過傷について、傷害罪の成立を否定しました。
熊本地裁玉名支部判決(昭和42年11月10日)
この判例は、軽微なものを傷害概念から除く趣旨で、生理的機能の障害がある程度持続することを要するとの学説に従った判例です。
治療2、3日間を要する顔面打撲傷の事案で、裁判官は、
- 医師に冷湿布でもしたらよいと言われた程度のものについて、法律上傷害と評価される健康状態の不良変更とか生理機能の障害とはそれが現象的にやや持続的なものであることを要し、短時間に回復する一過性のものは含まれず、かつ右不良変更や障害は表顕的であるか、または被害者において苦痛意識をもつものであって、日常の生活行動に不利な影響の存するものであることを要するものと解するのが相当である
と判示し、暴力行為等処罰に関する法律1条の3に規定する常習傷害罪の起訴に対して、常習暴行を認めました。
【小括】
上記各判例のように、日常生活上看過される、つまり、『被害者において自覚もせず、治療の必要もないものは傷害に当たらない』とするのが、最近の下級審判例の有力な見解といえます。
軽微な傷害ということはできないとして傷害罪の成立を認めた判例
上記の軽微な傷害として傷害罪の成立を認めなかった判例とは逆に、軽微な傷害ということはできないとして傷害罪の成立を認めた判例として以下のものがあります。
福岡高裁判決(昭和47年11月16日)
窃盗の途中にA、Bに見つかり、逃げるためにAとBを殴るなどし、Aの腕部とBの指に傷害を負わせた事案で、裁判官は、
- これらの傷害は、Aは左前腕部と左下腿部にそれぞれ打撲を受け、左前腕部の傷は約1cm平方に表皮が破れて血がにじみ出ていたほか、その周辺約4cm平方が皮下出血を伴って腫れ上って痛み、2日間通院し、消炎酵素剤や鎮痛剤を用いて治療を受け、左下腿部は湿布しただけで痛みを消失したが、左前腕の出血部位は3日間位で痂皮ができたものの、4、5日間は痛みが持続し、9日位を経ても痛みが残ったことが認みられる
- Bにおいては、左手第三、四指及び左大腿部に打撲を受け、左第三、四指は擦過状の創傷を形成し、各第二関節付近からわずかながら出血し、左大腿部は直径約2cm位が紫色になっていて、2日間通院し、消炎酵素剤や鎮痛剤による治療による治療を受けたことが認められ、左手第三、四指の傷は4日間位包帯し、曲げると痛みを感じ、痂皮の剥離後化膿したが6日間位で殆ど治癒状態になったものの、現在でも長さ1cm前後の細い瘢痕二条が残っていることが認められる
- なお、当時はAにおいては物を持つとき左腕を自然にかばい、Bにおいても指を曲けると痛み、包帯もしていたので自動車の運転に支障があったものである
- A、Bは、いずれも痛みを覚え、通院加療している事実等を認定の上、A、Bに生理又は生活的機能に障害があったことは否定しがたく、日常一般に治療もしないで放置する程度の軽微なものではなく、治療を必要とするものであって、現実に医療を受けるに至ったものであり、到底日常生活で一般に看過されるほどの極めて軽微な傷害ということはできない
- 傷害は軽傷とはいえ、日常生活上一般に看過される程度の軽微なものとは言えず、強盗致傷罪を構成する傷害と認めるに足るものといわなければならない
旨判示し、傷害事実を認め、強盗致傷罪を認定しました。
福岡高裁判決(昭和25年9月13日)
としました。
陰毛を毛根から引き抜いた事案で、裁判官は、
- 陰毛の毛根部分を残し、毛幹部分のみを截取するのではなく、毛根の部分から脱取してなすいわゆる引き抜く場合は、毛根にある血管神経を破壊し、表皮を損傷するから、身体における生理状態を不良に変更し、生活機能を毀損するものである
と判示し、傷害罪の成立を認めました。
陰毛を引っ張った事案で、裁判官は、
と判示し、傷害罪の成立を認めました。
福岡高裁判決(昭和30年2月2日)
胸部疼痛について、裁判官は、
- 身体の内部における機能運動に障害を与えて、健康状態を不良に変更させたもの
と判示し、傷害罪の成立を認めました。
名古屋高裁判決(昭和32年1月30日)
強姦犯人による全治約2日間を要する膣入口部粘膜剥について、傷害罪の成立を認めました。
大阪高裁判決(昭和34年6月23日)
安静加療4、5日を要し、被害者が疼痛を訴えた処女膜裂傷について、傷害罪の成立を認めました。
広島高裁松江支部判決(昭和38年9月4日)
一時的な失神について、生理的機能に障害を生ぜしめたものとして、傷害罪の成立を認めました。
甲府地裁判決(昭和42年12月19日)
この判例は、入れ墨を刑法上の傷害と認めた事例です。
A子から別れ話をされたことに憤慨し、被告人に極度に畏怖し、被告人に抵抗することのできない状態になっているA子の太ももに「新治」と入れ墨を入れ、陰阜に「新」と入れ墨を入れた事案で、裁判官は、
- 弁護人は、本件入墨行為は、範囲は小さく生理的機能を阻害するとしても、非常に軽微なものであるから、むしろ暴行行為と認めた方が妥当であるという趣旨の主張をしている
- けれども、本件入墨行為は、行為時、被害者の皮膚組織を毀損し、相当な出血と苦痛を伴なったばかりか、その真皮組織に、生涯異物(墨汁粒子)を残留せしめる結果となる行為で医学的に外傷と称されるばかりでなく、入墨に対する社会的評価をふくめて刑法的にも傷害行為と認むべきもので、これを例えば数日後には消去する殴打行為にともなう皮下出血などとは同視しえない
と判示し、傷害罪の成立を認めました。
東京地裁判決(昭和43年6月6日)
全治3日間を要する打撲傷と擦過傷について、傷害罪の成立を認めました。
消退まで10 日間かかったいわゆるキスマークについて、裁判官は、
- キスマークは、相当に強度の皮下出血であったというべきであって、人体の生活機能に障害を与え、その健康状態を不良に変更したものであることは明らかであり、また被害者本人がこれを自覚せず、一般の日常生活において看過するごとき軽微なものであつたともいえない
- 従って、キスマークをもって強姦致傷罪にいう傷害に当たる
と判示しました。
福岡高裁宮崎支部判決(昭和62年6月23日)
他覚的所見の認められない腰部圧痛について、傷害罪の成立を認めました。
大阪高裁判決(昭和53年3月9日)
加療3日間を要する両眼急性結膜炎、頭痛症、咽頭炎を負わせた事案で、傷害罪の成立を認めました。
広島高裁判決(昭和61年3月27日)
数日間湿布をした鈍痛について、傷害罪の成立を認めました。
過失運転致傷罪のおける傷害は、傷害罪における傷害と同義である
過失運転致傷罪(旧法:業務上過失傷害罪)における傷害の定義は、傷害罪における傷害の定義と同じです。
この点について、以下の判例があります。
大阪高裁判決(昭和47年10月11日)
自動車事故によって負った頚部損傷について、裁判官は、
- 刑法上にいう傷害とは、およそ人の健康状態を不良に変更することをいい、強盗致傷罪における傷害のみを、日常生活において一般に看過される程度の軽微なものはこれに含まれないなどと特にその意義を異にして解すべき根拠はない
- 業務上過失傷害罪における傷害の意義も同様である
- 患者の主訴によってなされた診断であっても、頚部の痛みについて自覚があり、医師において所要の手当を加えたことが明らかであるから、これを診察どおり頚部損傷という傷害と認定するに妨げない
と判示し、過失運転致傷罪における傷害の定義は、傷害罪における傷害の定義と同義であるとしました。