刑法論文(5)~令和元年司法試験の刑法論文問題から学ぶ~
令和元年司法試験の刑法論文問題から学ぶ
令和元年司法試験の刑法論文問題の答案を作成してみました。
この論文からは以下のテーマが学べます。
1⃣ 詐欺罪(刑法246条1項)、窃盗罪(刑法235条)、過失傷害罪(刑法209条)
3⃣ 刑法総論
財物性、占有、不法領得の意思、刑法65条1項・2項(身分犯の共犯)、事実の錯誤、方法の錯誤、正当防衛、緊急避難、誤想防衛、誤想避難、過失犯の注意義務違反(結果予見義務・結果回避義務)
問題
以下の【事例1】から【事例3】までを読んで、後記〔設問1〕から〔設問3〕までについて、答えなさい。
【事例1】
甲(男性、25歳)は、他人名義の預金口座のキャッシュカードを入手した上、その口座内の預金を無断で引き出して現金を得ようと考え、某日、金融庁職員に成りすまして、見ず知らずのA(女性、80歳)方に電話をかけ、応対したAに対し、「あなたの預金口座が不正引き出しの被害に遭っています。うちの職員がお宅に行くのでキャッシュカードを確認させてください。」と告げ、Aの住所及びA名義の預金口座の開設先を聞き出した。
同日、甲は、キャッシュカードと同じ形状のプラスチックカードを入れた封筒(以下「ダミー封筒」という。)と、それと同種の空の封筒をあらかじめ用意してA方を訪問し、その玄関先で、Aに対し、「キャッシュカードを証拠品として保管しておいてもらう必要があります。後日、お預かりする可能性があるので、念のため、暗証番号を書いたメモも同封してください。」と言った。Aは、それを信用し、B銀行に開設されたA名義の普通預金口座のキャッシュカード及び同口座の暗証番号を記載したメモ紙(以下「本件キャッシュカード等」という。)を甲に手渡し、甲は、本件キャッシュカード等をAが見ている前で空の封筒内に入れた。その際、甲は、Aに対し、「この封筒に封印をするために印鑑を持ってきてください。」と申し向け、Aが玄関近くの居間に印鑑を取りに行っている隙に、本件キャッシュカード等が入った封筒とダミー封筒をすり替え、本件キャッシュカード等が入った封筒を自らが持参したショルダーバッグ内に隠し入れた。Aが印鑑を持って玄関先に戻って来ると、甲は、ダミー封筒をAに示し、その口を閉じて封印をさせた上でAに手渡し、「後日、こちらから連絡があるまで絶対に開封せずに保管しておいてください。」と言い残して、本件キャッシュカード等が入った封筒をそのままA方から持ち去った。
その数時間後、甲の一連の行動を不審に感じたAが前記事情を警察に相談したことから、甲の犯行が発覚し、警察から要請を受けたB銀行は、同日中に前記口座を凍結(取引停止措置)することに応じた。
翌日、甲は、自宅近くのコンビニエンスストアに行き、同店内に設置されていた現金自動預払機(以下「ATM」という。)に前記キャッシュカードを挿入して現金を引き出そうとしたが、既に前記口座が凍結されていたため、引き出しができなかった。
〔設問1〕
【事例1】における甲のAに対する罪責について、論じなさい(住居侵入罪及び特別法違反の点は除く。)。
【事例2】
(【事例1】の事実に続けて、以下の事実があったものとする。)
甲は、現金の引き出しができなかったため、ATMの前で携帯電話を使ってA方に電話をかけてAと会話していた。同店内において、そのやり取りを聞いていた店員C(男性、20歳)は、不審に思い、電話を切ってそそくさと立ち去ろうとする甲に対し、甲が肩から掛けていたショルダーバッグを手でつかんで声をかけた。甲は、不正に現金を引き出そうとしたことで警察に突き出されるのではないかと思い、Cによる逮捕を免れるため、Cに対し、「引っ込んでろ。その手を離せ。」と言ったが、Cは、甲のショルダーバッグをつかんだまま、甲が店外に出られないように引き止めていた。
その頃、同店に買物に来た乙(男性、25歳)は、一緒に万引きをしたことのあった友人甲が店員のCともめている様子を見て、甲が同店の商品をショルダーバッグ内に盗み入れてCからとがめられているのだろうと思い、甲に対し、「またやったのか。」と尋ねた。甲は、自分が万引きをしたと乙が勘違いしていることに気付きつつ、自分がこの場から逃げるために乙がCの反抗を抑圧してくれることを期待して、乙に対し、うなずき返して、「こいつをなんとかしてくれ。」と言った。乙は、甲がショルダーバッグ内の商品を取り返されないようにしてやるため、Cに向かってナイフ(刃体の長さ約10センチメートル)を示しながら、「離せ。ぶっ殺すぞ。」と言い、それによってCが甲のショルダーバッグから手を離して後ずさりした隙に、甲と乙は、同店から立ち去った。
〔設問2〕
【事例1】において甲が現金を引き出そうとした行為に窃盗未遂罪が成立することを前提として、【事例2】における乙の罪責について、論じなさい(特別法違反の点は除く。)。
なお、論述に際しては、以下の①及び②の双方に言及し、自らの見解(①及び②で記載した立場に限られない)を根拠とともに示すこと。
① 乙に事後強盗の罪の共同正犯が成立するとの立場からは、どのような説明が考えられるか。
② 乙に脅迫罪の限度で共同正犯が成立するとの立場からは、どのような説明が考えられるか。
【事例3】
(【事例1】の事実に続けて、【事例2】の事実ではなく、以下の事実があったものとする。)
甲は、現金の引き出しができなかったため、同店の売上金を奪おうと考え、同店内において、レジカウンター内に一人でいた同店経営者D(男性、50歳)に対し、レジカウンターを挟んで向かい合った状態で、ナイフ(刃体の長さ約10センチメートル)をちらつかせながら、「金を出せ。」と言って、レジ内の現金を出すよう要求した。それに対し、Dが「それはできない。」と言って甲の要求に応じずにいたところ、甲は、「本当に刺すぞ。」と怒鳴り、レジカウンターに身を乗り出してナイフの刃先をDの胸元に突き出したが、それでも、Dは甲の要求に応じる素振りさえ見せなかった。
同店に客として来ておりそのやり取りを目撃していた丙(女性、30歳)は、Dを助けるため、間近に陳列されていたボトルワインを手に取り、甲に向かって力一杯投げ付けた。ところが、狙いが外れ、ボトルワインがDの頭部に直撃し、Dは、加療約3週間を要する頭部裂傷の傷害を負った。
なお、ボトルワインを投げ付ける行為は、丙が採り得る唯一の手段であった。
〔設問3〕
【事例3】において、丙がDの傷害結果に関する刑事責任を負わないとするには、どのような理論上の説明が考えられるか、各々の説明の難点はどこかについて、論じなさい。
答案
設問1
1 本件キャッシュカード等が入った封筒をAから受け取り、これをショルダバーバッグ内に隠し入れた行為について詐欺罪(刑法246条1項)が成立しないか。
⑴ 本件キャッシュカード及び口座の暗証番号を記載したメモは財物性が認められるか。
詐欺罪や窃盗罪などの財産罪の客体たる財物は、財産といえるだけの価値、すなわち財物性を有することを要する。
財物性は、所有権の目的となり得るものという性質があれば認められる。
財物性は、経済的価値、金銭的価値に限らず、感情的価値、主観的価値等がある物にも認められ、これらの価値が全くないといえない限り、財物性は幅広く認められる。
本件キャッシュカードは、財産的価値を有し、所有権の目的となるので財物性が認めらることは明らかである。
本件暗証番号を記載したメモは、これを利用して預貯金の引き出しを受けられるなどの財産的価値を有し、所有権の目的となる上、悪用されたら財産的損失を被るおそれがあるという消極的な価値も有することから、財物性が認めれる。
また、刑法246条1項の詐欺罪の客体は、他人が占有する他人の財物である。
本件キャッシュカード及びメモは、財物性を有し、Vが占有する他人の財物であることから、詐欺罪の客体になる。
⑵ 詐欺罪が成立するには、①欺罔行為、②被害者の錯誤、③被害者の錯誤に基づく財産的処分行為、 ④財物又は財産上の不法の利益の取得、⑤財産上の損害の発生という因果的連鎖が必要となる。
欺罔行為とは、詐欺犯人の希望する財産的処分行為に向けて被害者を錯誤に陥らせる行為をいう。
財産的処分行為とは、物・財産上の利益を詐欺犯人に移転させる行為をいう。
甲は、本件キャッシュカード等をAの目の前で空の封筒に入れ、その後にAに対して印鑑を持ってくるように言い、Aが印鑑を取りに行っているすきに、本件封筒とダミー封筒をすり替え、本件封筒をショルダーバッグ内に隠し入れている。
ダミー封筒をあたかも本件封筒のように装った点が欺罔行為に当たるとも思える。
しかし、詐欺罪は、①欺罔行為、②被害者の錯誤、③被害者の錯誤に基づく財産的処分行為という因果的連鎖よって財物を取得する犯罪類型であることから、欺罔行為があるといえるためには、被害者に財産的処分行為を生じさせるものでなければならない。
そして、財産的処分行為というためには、被害者が自らの意思に基づき、財物を詐欺犯人へ移転させる行為が必要である。
Aは本件キャッシュカード等を甲に手渡しているが、これは甲に交付するためでなく、本件キャッシュカード等を封筒の中に入れて保管するためである。
Aには、甲が本件封筒を自己の物にし、外部に持ち出すという認識があったとも認められない。
よって、Aが自らの意思に基づき、本件キャッシュカード等を甲に移転させる行為がない。
したがって、①欺罔行為、②被害者の錯誤、③被害者の錯誤に基づく財産的処分行為という因果的連鎖なく、甲は本件キャッシュカードを領得していることから、詐欺罪は成立しない。
2 それでは、甲が本件キャッシュカード等が入った封筒をAから受け取り、これをひそかにショルダバーバッグ内に隠し入れた行為について窃盗罪(刑法235条)が成立しないか。
⑴ 本件キャッシュカード等は、Aの管理する物なので「他人の財物」である。
⑵ 甲の本件キャッシュカード等の領得は窃取といえるか。
「窃取」とは、目的物の占有者の意思に反して、その占有を侵害し、その物を自己または第三者の占有に移すことをいう。
「占有」とは、人が財物を事実上支配し、管理する状態をいう。
占有が認められるためには、①占有の意思を有すること、②物が占有者の実力的な支配下にあることを要する。
これは、占有の意思の下に占有者の実力的支配にある物とそうでない物とでは、その物を領得する難易度、反対動機形成の心理的ハードルに差があり、その差が違法性の差に結び付くためである。
すなわち、占有者の実力的支配にある物の領得は、その難易度が高いため、犯行を思いとどまる反対動機も形成しやすいのだから、それでも犯行に及んだ場合は高い違法性が認められ、窃取として法定刑の重い窃盗罪で処罰される。
反対に、占有者の実力的支配にない物、つまり、占有離脱物・遺失物の領得は、その難易度は低いため、犯行を思いとどまる反対動機は形成しにくいことから、犯行に及んだ場合の違法性は低く、横領として法定刑の軽い占有離脱物横領罪・遺失物横領罪(刑法254条)で処罰される。
Aは、本件キャッシュカード等を甲に譲り渡すという意思ではなく、封筒の中に入れてもらう意思で手渡している。
よって、Aに本件キャッシュカード等に対する占有の意思が認められる。
また、甲は、Aが本件キャッシュカード等を玄関で甲に手渡した後、居間に印鑑を取りに行っている際に領得している。
居間は、甲のいる玄関近くであり、Aは何かあればすぐに玄関に引き返すことができるのであり、Aと本件キャッシュカード等とは時間的・場所的接着性が認められることから、本件キャッシュカード等は未だAの実力的支配下にあったと認められる。
よって、Aは本件キャッシュカード等の占有を失っておらず、占有を有していたと認められる。
したがって、甲の本件キャッシュカード等の領得は、Aの占有を侵害する違法性の高い行為であるから「窃取」といえる。
⑶ 甲に不法領得の意思はあるか。
不法領得の意思とは、権利者を排除し、他人の物を自己の所有物と同様に、その経済的用法に従い、これを利用し又は処分する意思をいう。
権利者排除意思は、窃盗既遂後の事情を考慮し、窃盗罪と違法性の乏しい一時使用窃盗を区別し、一時使用窃盗を不可罰にするために必要となる。
「その経済的用法に従い」とは、領得した財物自体から生み出される利用価値・交換価値を窃盗犯人が享受する使い方をいう。
利用処分意思は、「捨てる」という意味でなく「盗んだ物を売却する」「他人に譲り渡す」「自己使用する」などの処分行為を意味し、財物領得罪と器物損壊罪を区別するために必要となる。
本件では、甲に権利者排除意思があることは明らかである。
甲は、本件キャッシュカード等を使って預金口座から現金を引き出すことを目的としているので、本件キャッシュカード等自体から生み出される利用価値を直接享受する意思が認められる。
本件キャッシュカード等の利用法は自己使用目的であり、利用処分意思が認められる。
よって、不法領得の意思が認められる。
⑷ 以上より、甲にAに対する窃盗罪が成立する。
設問2
1 ①の立場
前提として、刑法65条1項・2項の解釈について、1項は真正身分犯の連帯的作用を規定したものと解する。
対して、2項は不真正身分犯の個別作用を規定したものと解する。
上記刑法65条の解釈を踏まえ、事後強盗罪の共同正犯が成立するとの立場は、事後強盗罪(刑法238条)における窃盜犯人(窃盗未遂犯人を含む)たる地位を刑法65条1項の真正身分と解し、窃盗に関与していない者を事後強盗罪の共同正犯とする。
事後強盗罪は、暴行罪、脅迫罪に窃盗犯人たる身分が加わって刑が加重される刑ではなく、窃盗犯人たる身分を有する者が刑法238条の事後強盗罪の所定の目的である①得た財物が取り返されることを防ぐこと、②逮捕を免れること、③罪跡を隠滅する目的をもって人の犯行を抑圧するに足りる暴行・脅迫を行うことによって初めて成立するものであるから、真正身分犯であり、不真正身分犯ではないので、身分なき者に対して刑法65条2項を適用すべきではないと解するものである。
2 ②の立場
上記刑法65条の解釈を踏まえ、脅迫の限度で共同正犯が成立するとの立場は、脅迫を基本犯とし、事後強盗罪における窃盗犯人(窃盗未遂犯人を含む)たる地位を刑法65条2項の不真正身分と解し、窃盜に関与していない者には事後強盗罪の共同正犯が成立するが、刑法65条2項に基づき、その刑は脅迫にとどまるとする。
3 自説
⑴ 自説は①の立場に与する。
事後強盗の行為者が、窃盗犯人の犯行に関与したのが、窃盗犯人の窃盗の犯行が終了した後であっても、事後強盗の行為者が、窃盗犯人の犯行を認識した上で、事後強盗の要件である財物を得てこれを取り返されることを防ぎ、逮捕を免れ、又は罪跡を隠滅するために、暴行又は脅迫をしたときは、窃盗犯人の身分を有しない事後強盗の行為者についても、刑法65条1項、60条の適用により事後強盗罪の共同正犯が成立すると解する。
⑵ 乙は、甲のATM盗が窃盗未遂として終了した後に犯行に関与している。
乙は、甲の行った犯行がATM盗の窃盗未遂ではなく、万引きの窃盗であると犯行態様について錯誤しているものの、甲が窃盗に当たる行為を行ったことを認識している。
その上で、乙は甲に対し、「またやったのか。」と尋ね、甲はうなづいて「こいつをなんとかしてくれ。」と言っているので、この時点で共謀の成立が認められる。
⑶ そして、乙は、甲が捕まることを免れさせる目的で、Cにナイフを示しながら「離せ。ぶっ殺すぞ。」と言って、Cの犯行を抑圧するに足りる暴行・脅迫を加えている。
よって、事後強盗の実行行為が認められる。
⑷ ここで、甲は、甲の行った犯行がATM盗の窃盗未遂ではなく、万引きの窃盗であると犯行態様について錯誤しているので、事後強盗の故意及び共同実行が認められないのではないかとも思える。
しかし、共同正犯の成否は構成要件レベルの問題であるから、およそ窃盗の存在を認識して事後強盗罪の実行行為に及んでいるのであるから、事後強盗の故意及び共同実行が認められる。
⑸ 本件事後強盗罪は未遂か、既遂か。
事後強盗の未遂と既遂を分ける基準は、強盗罪の未遂と既遂を分ける基準と同じく、窃盗犯人が財物を奪取したかどうか、つまり、窃盗が既遂か未遂かという点による。
なぜならば、事後強盗罪は、財物を窃取した後に暴行・脅迫を行った点に強盗罪との行為の違いがあるだけであり(強盗罪は財物を奪取している最中に暴行・脅迫を行う)、反社会性と可罰的違法性は、強盗罪と大差がないためである。
よって、窃盗未遂を行った犯人が事後強盗を行った場合は、事後強盗未遂罪が成立する。
甲が実際に行ったATM盗の窃盗は未遂犯につき、事後強盗も未遂犯となる。
⑷ 以上より、刑法65条1項、60条の適用により、窃盗犯人たる身分を有しない乙に対して事後強盗未遂罪の共同正犯が成立する。
設問3
1 丙が投げたボトルワインがDの頭部に直撃し、Dは加療約3週間を要する頭部裂傷の傷害を負っている。
よって、丙の行為がDに対する傷害罪(刑法204条)の客観的構成要件に該当することは明らかである。
以下で丙の刑事責任を否定する構成を検討する。
⑴ まず、丙のDに対する傷害の故意が認められないとして、主観的構成要件該当性を否定できないか。
丙の行為は、Dを守る目的で甲にボトルワインを投げ付けたが、Dに当たってしまい、Dに傷害を負わせてしまっている。
これは事実の錯誤における方法の錯誤が問題となる。
「事実の錯誤」とは、犯罪の行為者が認識・容認していた犯罪事実と、実際に発生した犯罪事実とが食い違うことをいう。
「方法の錯誤」とは、Aを殺すつもりで拳銃を発砲したが、Aの近くにいたBに弾が当たってしまい、Bを殺してしまったというように犯罪行為の向き・方向に錯誤があった場合の錯誤をいう。
事実の錯誤が起こった場合、犯罪の故意の存在を認め、犯罪の成立が認められるかどうかが問題となる。
故意責任の本質は、規範に直面し、犯行を思いとどまるという反対動機を形成できる状況にありながら、あえて犯罪行為に及んだことに対する道義的非難にあるから、方法に錯誤があるなどの事実の錯誤を起こし、構成要件の範囲内で認識にずれがあっても、そのずれが構成要件の範囲内であれば故意を阻却しない。
丙には甲に対する傷害の故意があるから、Dに対する傷害の故意も否定することができない。
よって、主観的構成要件該当性を否定できない。
⑵ 正当防衛(刑法36条1項)が成立し、違法性が阻却されないか。
「正当防衛」とは、急迫不正の侵害に対して、自己又は他人を守るためにやむを得ずにした反撃行為をいう。
正当防衛は、急迫不正の侵害という緊急状況の下で公的機関による法的保護を求めることが期待できないときに、侵害を排除するための私人による対抗行為を例外的に許容したものである。
「急迫不正の侵害」とは、違法な法益侵害が現に存在するか、目の前に差し迫っていることをいう。
丙が正当防衛を行う相手方はDであり、丙のDに対する正当防衛が認められるためには、Dが丙又はその他者に対して不法行為を行っている必要がある。
しかし、Dは不法な行為を何ら行っていないので、丙とDとの関係で違法な法益侵害が存在しないことから、正当防衛は成立しない。
よって、正当防衛を理由に違法性を阻却することができない。
⑶ 緊急避難(刑法37条1項)が成立し、違法性が阻却されないか。
緊急避難とは、自分又は他人の生命、身体、自由もしくは財産に対する現在の危険を避けるために、やむを得ずにした避難行為であって、避難行為によって生じた害が、避けようとした害の程度を越えなかったものをいう。
避難行為は、危険を避けるための行為である必要があり、正当防衛のように反撃のための行為であってはならない。
丙は、Dという「他人の生命」に対する甲の侵害という「現在の危険を避けるため」、採りうる唯一の手段であるボトルワインを投げ付けるという行為をしていることから、Dの行為は「やむを得ずにした避難行為」ということができるとも思える。
しかし、丙に避難の意思があったといえるかどうかは疑問である。
丙は、甲からナイフを突き付けられるなどされているDの身を守るために、Dを守ろうとする防衛の意思をもって、ボトルワインを投げ付けるという反撃行為をしており、これを反撃行為ではなく、危険を避けるための行為ということは困難である。
よって、緊急避難は成立せず、緊急避難を理由に違法性を阻却することができない。
⑷ 誤想防衛、誤想避難として故意責任を否定できないか。
「誤想防衛」とは、侵害行為が存在しないのに、存在すると誤信して行った正当防衛行為をいう。
「誤想避難」とは、①現在の危険がないのに、危険があると誤信して避難行為をすること(現在の危険の誤信)、または、相当な避難行為をするつもりで、不相当な避難行為をすること(避難行為の相当性の誤信)をいう。
丙は、甲のDに対する侵害行為の存在は正しく認識していることから、誤想防衛、誤想避難との説明をし、故意責任を否定することは困難である。
⑸ 可罰的違法性はあるか。
「可罰的違法性」とは、犯罪が成立するためには、行為が違法だというだけでは足りず、犯罪として刑罰を科すに値する程度の実質的違法性も有していなければならないとする考え方をいう。
丙のDに対する傷害行為は、上述のとおり、故意責任を否定できず、正当防衛、緊急避難、誤想防衛、誤想避難も成立しないことから、違法性を否定することはできない。
しかし、丙のDに対する傷害行為は、Dの生命を守るために行った行為であり、正当防衛、緊急避難と同視できる行為であると認められる。
よって、正当防衛、緊急避難によって違法性が否定されるのと同様に、犯罪として刑罰を科すに値する程度の実質的違法性は認めれないと解する。
したがって、丙のDに対する傷害行為は、可罰的違法性がないとして、犯罪の成立を否定することができると解する。
⑹ 過失犯の刑責は負うか。
丙のDに対する傷害行為に、丙の注意義務違反が認められれば過失犯の責任を負うことになり、過失傷害罪(刑法209条)が成立する。
「注意義務違反」は、注意をすれば結果を認識することができ、結果を回避し得たにもかかわらず、不注意により認識を欠き、結果を回避しなかったことをいう。
このうち結果を認識すべき義務を「結果予見義務」、結果を回避すべき義務を「結果回避義務」といい、これが注意義務の中核的な内容となる。
注意義務違反として過失が肯定されるためには、「結果予見可能性」と「結果回避可能性」の2つが肯定されることが要件となる。
注意義務における注意は、具体的事件の客観的状況において社会通念上一般的に要求されると考えられる程度の注意と解する。
ボトルワインを力一杯投げ付けることは危険な行為であり、ボトルワインが甲の近くにいたDに当たるかもしれないことは、一般通常人であれば予見できるといえるので、結果予見可能性があるといえる。
しかし、甲がナイフをDの胸元に突き出している状態で、ボトルワインを投げ付ける行為がDの取り得る唯一の行為であったことからすれば、Dはボトルワインを投げつけるしかなかったのであるから、結果回避可能性もあったとは言い難い。
よって、結果予見可能性は認められるが、結果回避可能性は認めることはできないので、Dの過失は否定される。
したがって、過失傷害罪は成立せず、Dは過失犯の刑責は負わない。
2 以上より、丙はDの傷害結果に対し、可罰的違法性がないとして刑事責任を負わないとすることができる。
過失も否定できるので過失犯の刑事責任も負わない。