前回の記事の続きです。
今回は、殺人罪における「抽象的事実の錯誤」を説明します。
「具体的事実の錯誤」と「抽象的事実の錯誤」
まず、最初に「事実の錯誤」を説明します。
事実の錯誤とは、
犯罪の行為者が認識・容認していた犯罪事実と、実際に発生した犯罪事実とが食い違うこと
をいいます。
事実の錯誤が起こった場合、
故意(犯罪を犯そうとする意志)が認められるかどうか
という争点が生まれます。
この争点が重要になる理由は、故意(犯罪を犯そうとする意志)が認められなければ、犯罪は無罪になるからです(この点は前の記事参照)。
そして、事実の錯誤は、
- 具体的事実の錯誤
- 抽象的事実の錯誤
に分類できます。
(この点については前の記事でも詳しく説明しています)
具体的事実の錯誤とは?
具体的事実の錯誤とは、
Aを殺すつもりだったのに、Bを殺してしまった…というように、同一構成要件内の錯誤
をいいます。
この場合、殺す相手は間違ってしまったものの、殺人罪を犯したことに間違いはないので、殺人罪という「同一構成要件内」における錯誤になります。
具体的事実の錯誤の場合、殺人の故意は否定されず、殺人罪が成立するというのが判例の考え方です。
抽象的事実の錯誤とは?
抽象的事実の錯誤とは、
物を壊すつもりであったが、対象物が物ではなく、人であり、人を殺してしまった…というように、異なる構成要件間の錯誤
をいいます。
たとえば、器物損壊罪(物を壊す)を犯すつもりで、殺人罪(人を殺す)を犯してしまった場合、器物損壊罪と殺人罪は、構成要件が異なるので、抽象的事実の錯誤になります。
判例は、錯誤が異なる構成要件の間で生じたときは原則として故意を認めないが、例外的に、構成要件が重なり合っている場合には、重なり合う限度で軽い罪につき故意の成立を認めるという考え方をとっています。
殺人罪における抽象的事実の錯誤の判例
殺人罪における抽象的事実の錯誤の判例として、以下のものがあります。
正犯(傷害の実行者)が、被害者に傷害を加えるかもしれないと認識しながら、正犯に対し、あいくち(短刀)を貸与して幇助したところ、正犯が殺意をもって被害者をあいくちで刺殺した事例で、傷害の認識で短刀を貸与した幇助者に対し、殺人罪ではなく、傷害致死幇助の成立を認めました。
裁判官は、
- 被告人の認識したところ、すなわち犯意と現に発生した事実とが一致しない場合であるから、刑法第38条第2項の適用上、軽き犯意についてその既遂を論ずべきであって、重き事実の既遂をもって論ずることはできない
- 原判決は、右の法理に従って、法律の適用を示したもので、幇助の点は客観的には、殺人幇助として刑法第199条、第62条第1項に該当するが、軽き犯意に基き、傷害致死幇助として、同法第205条、第62条第1項をもって処断すべきものであることを説示したものであることは、判文上極めて明かであって、原判決の法律の適用は正当である
と判示しました。
大審院判決(明治43年4月28日)
被害者がふざけて自己の殺害を嘱託したところ、加害者が真実の嘱託と誤信し、被害者を殺そうと手を下したが遂げなかった事案で、刑法38条2項により嘱託殺人未遂罪(刑法202条)が成立するとしました。
殺人未遂罪はなく、構成要件が重なり合う限度で、軽い罪である嘱託殺人未遂罪が成立するとしたものです。
①殺人罪、②殺人予備罪、③自殺教唆罪・自殺幇助罪・嘱託殺人罪・承諾殺人罪の記事まとめ一覧